スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

仇討ち 14

当時のことを、尤もよく伝えているのは
義徹の娘、文であった。

遠く明治政界の一面、当時の近親縁者の交錯した生涯の明暗を知っている。

この仇討ちの事実を話すに当たっては

多くの人の見聞であって、文書の証拠のないものであった。

ところが近親者の代議士に依って
国会図書館で調査をしたところ、伝承と同じであることがわかった。

尚、それによれば水戸の家中では
その時以来、中秋の名月を祝わないことであった。

彦根の藩士は、桜田門の事件以来、大老の殺害された
3月3日の雛祭りをしないのである。


                完

家

スポンサーサイト

仇討ち 13

そういう情勢であったから、北海道に逃げた義徹の兄は
いつまでも生ける屍であって、その生きている身体を現して
内地に帰ることが出来なかった。

彼が水戸の殿様を殺したと判っては、弟の義徹を始め
彼の一族の出世、彦根の発展の邪魔になるからである。

しかし、義徹は近親者を北海道にやって
やっと兄の消息を知ることが出来た。

そして、殿様殺害の事実を明らかにする事ができた。

その後、兄は懐かしい彦根を見るために
深編笠をかぶって密かに帰ってきた。

しかし、そのまま立ち去った。

兄弟の約束として、死んだ年月、場所さえも
わからないままとなった。

明治維新前後のドサクサに、貞義を脱藩後生死不明として
藩庁に届け、また府の戸籍に記さなったから

死亡の日時、戸籍も記していない。

そして,お位牌には戒名と俗名、生まれた月日のみが
記されている。




仇討ち 12

そして、弟の則義は西郷に兄の密書を届けるべく
薩摩に船で航行の途中、政府の密偵に発見されて殺され
その密書を奪われていた。

このように弟の義徹は、明治政界の雄となり
又、彦根は朝敵となることを免れたけれども
薩長や、水戸を中心とした明治政府の眼は
彦根に対して今度の戦争が終わるまで実に冷ややかであった。

明治を貫いた薩長藩閥政府は、安政の大獄を口実にして
彦根を陥れたにすぎない。

だから義徹は政治家として終始、薩長藩閥政府に反発し
長州の伊藤博文の自由党結成に対し
その反対党を結成し、その幹部となった。

その反対党結成事情を書き綴った手紙は今も残されている。

こうして彼は、民衆政治家として第一次政党内閣の大臣となったのである。

仇討ち 11

井伊大老の、安政の大獄があり
この彦根が、薩長.土佐.水戸からあれほど憎まれていながらも
会津のような没藩もせず、白虎隊のような悲劇なくして済んだのは
鳥羽伏見の戦いが大きな功績となっていた。

官軍が徳川征伐に江戸へ向かって進軍することになった時
その道筋にあった彦根藩では、義徹をはじめ身分の低い士は
官軍に合流して、徳川を討とうと主張し
ついに官軍に呼応して徳川を攻撃することにした。

そして、義徹は中山道から江戸に迫る官軍部隊の参謀のひとりとなった。
年は、二十五歳であった。

義徹は、明治四年には、明治新政府の中軸をなす
岩倉具視、大久保利通に従って、欧米を視察したが
西郷隆盛と志を同じとし
明治十年、西郷と鹿児島に挙兵を謀議し発覚して捕らえられた。

彼が近江西郷と呼ばれたのは、その故である。
堀

仇討ち 10

その時、伏見の高台に小隊を率いて潜んでいた薩摩の桐野利秋は
白刃を抜いて、幕府の鉄砲隊に切り込んだ。

幕軍がひるんだその時に
砲兵隊長、大東義徹を初め少壮にして進歩的な諸士からなる彦根勢は
重臣の指揮に従っていたが、この明治維新の口火となった
鳥羽伏見の戦いにおいて徳川の三百年の将軍の親衛隊へ
その大砲を撃ち放った。

日和見をしていた諸藩の大砲もこれにならった。

会津、桑名を中心とする幕府軍は総崩れとなり
大阪へ逃げ、十五代将軍慶喜も船で江戸へ帰った。

ついに明治の維新が成就した。

彦根が朝廷から心篤い感謝を得たのはこの時である。hasi524-2.jpg

仇討ち 9

蝦夷の地

海岸には昆布と鰊の魚場があり
そこの網元と買出しの商人は、皆 近江の商人であった。

彼らは、この昆布と鰊を海路にて敦賀に揚げ
彦根藩の琵琶湖から大阪に運んでいたのである。

彼らは、皆豪商であった。
だから、蝦夷の地、唯一の大名松前藩も
その財政は、近江使用人の手によるものであった。

蝦夷の地は、貞義が隠れるのには都合のよい土地であった。

時が過ぎること数年
弟の義徹は、二十歳で足軽から士に抜擢され
西洋流の平方を高島秋帆に学んで、藩の砲兵隊長となり
慶応4年、鳥羽伏見に陣した。

この戦いは始め大阪から京都に攻め入る会津、桑名を中心とする
幕府軍が強くて、京都の天皇を護る薩摩郡の旗色は、甚だ悪く
援軍を頼むという第一戦からの注進に応えて

西郷隆盛は、援兵一人もなし 全員死ねと返事した。
kabe528.gif

仇討ち 8

さて、肺病というものは
じりじりと悪くなって、痩せ細り、朽ちた木が音もなく
倒れるように息を引き取るものである。

いかなる手当てでも出来る殿様が、数時間前に侍医の診断を受け
大丈夫と折り紙をつけられ、安心して元気で
多くの家臣と最後まで酒宴をし、列座の家来達も殿様のご機嫌に
喜びの言葉を述べて退去したすぐ後に、
急に病重くなりでは、不可解と受け取られても不思議はなかった。

貞義は、水戸の藩邸で捕らわれてもいけない
死骸となってもいけない

それでは出入りの庭師が調べられて
水戸の殿様が足軽に討たれたのでは
彦根の殿様は、お家断絶、また彦根藩の武士は
すべて浪人となってしまう。

とにかく逃げた。
当初からの計画通り
「蝦夷」へ落ち延びた。

当時の蝦夷は、どこの殿様の領地でもなかった。
幕府の手も諸般の権力もここには、及ばなかった。

屋敷

仇討ち 7

松本氏は見舞いには行ったが、病人には会わなかったという。

すでに死んで葬った人に会うことは出来ない。

これは、後に義徹に引き立てられた彦根の八木原少将の談話である。

このように一応病気の態にしたのは、ちょうど彦根藩が
大老の首と胴体を接ぎ合わせて、しばらくの間病気と発表して
御家断絶を免れたと同じ手法である。

水戸では病気と発表はしたが、斉昭が刺殺されたという真実は
次第に家中に広まり、なぜ犯人を捕らえなかったのか、
ということは、宿直の士の責任になり、殿中、市中警備の手落ちとなり
また、水戸武士の名折れとも口惜しがられたのである。

そこで、相手は短筒を持っていたとかの言い訳や
闇の中を追い回して池に落とした
などという武勇伝が作り上げられたのであろう。

そして、肝心の生国、氏名、処刑はうやむやにぼかされてしまった。

物語は作り上げられるが、
そういう確実性のある証拠は作られないからであるie528.jpg

仇討ち 6

郷士は百姓らしくもあり、士らしくもある。

足軽の身分を隠すのに格好のことである。

交通の少ない当時としては、関西の足軽程度のものとしては身分を
誤魔化すのに当たって、関東の地理に暗くて思いつく地名が
なかったのであろう。

そこで聞き覚えのある彦根の支藩、佐野藩の郷士くらいしか
もっともらしい地名をいい得なかったのであろう。

とにかく貞義は逃げ延びた。

水戸藩としては、刺殺であれ、ピストルであれ
そういう不名誉な死に様を、殿様がしたとなると
当時の法制上、また 情勢上、お家断絶である。

また、幕府としては、当時水戸派を中心の尊王論と
彦根を中心とする、佐幕派とが日本中で争乱している最中に
水戸の殿様が彦根人の手で、刺殺されたということを
公表したのでは、天下の騒動を一層大にして、
ひいては、幕府の存続が危うくなる。

依って、斉昭は、急に病が重くなり
亡くなったということにした。

そして、幕府は、この御三家の筆頭水戸家に対し
江戸城の御殿医を遣わして、病気見舞いをさせた。

その御殿医、松本氏は、明治になって
東京お茶ノ水に、順天堂病院を開いた人である。

kabe1.18.gif

仇討ち 5

水戸の伝承では、犯人は 上州佐野藩 郷士 某であるという。

佐野藩は、水戸の支藩である。
佐野藩は小藩であるし、郷士というものは少ないはずである。

してみれば、佐野藩の郷士という以上、何村の何兵衛であるということは
すぐにわかるはずである。

徳川の時代に、御三家筆頭の水戸藩の力を以ってすれば
そういう吟味は忽ち出来るはずである。

しかるに貞義は逃げたのであるが、真に誰が犯人であったかは
今日でも水戸ではわからないのである。

水戸藩では、あらゆる操作をして邸内に入った者を吟味したであろう。

庭師の親方も調べられたであろう。

そして、配下の人夫の一人が行方不明になったことが
すぐにわかったであろう。

この人夫は、水戸邸に出入りするにあたって、その身分を
親方に告げなければならない。

その際に、水戸の近くの佐野藩の郷士だと偽ったのであろう。

仇討ち 4

また、犯人を捕らえたという説もある。

しかし、捕らえたのであれば処刑したであろうが
その記録も残っていない。

また、この仇討ちをした者の名前、生まれた国、出身の藩の名前も
まったくない。

当時、貞義と則経の家にはすでに両親はなく、貧乏のどん底にあった。
足軽では、水戸への旅費にも事欠いたであろうに
当時、舶来で高価な短筒が買えるわけがない。

当時の短筒は、一発必殺の武器でもなかった。

足軽風情で殿の仇を討とおうと、他の藩の殿様を命を貰う
悲願をかけた程の青年、貞義であれば、自らの剣に運命を託すのが
自然の成り行きだと思う。

仇討ち 3

やがて時刻が移り
一同、歓を盃して散会し、御殿医も居間に引き取った。
斉昭は寝所に入る前、縁側に出て便所に入った。

やがて、済ませて手水鉢に手を出そうとしたところを

貞義は、突如陰から飛び出して斉昭の脇腹を刺した、
斉昭は、御殿医の名を呼び、宿直(とのい)の士も縁側に飛び出して来た。

斉昭は、左の手で縁の柱をつかみ右手で脇腹を押さえており
そのまま声もなく縁側に崩れ落ちた。
斉昭は61歳。皆が慌てて寝所に抱き戻したが
「遂にお開き遊されず」と、家中の士の手記に残されており
その手記は、いまも国会図書館にある。

図書館の諸本によれば、公式の藩の記録には
「酒宴が終わり、急に病 重なり遂にお開き遊されず」となっている。

又、他の藩士の手記には
「殿様の死因につき、家中、城下 諸説あれど」となっている

 今日、水戸での伝承では
犯人は、短筒(ピストル)を撃った後、逃げて庭の逝けに落ち
水中で自決したとある。

仇討ち 2

そこで、剣の一番たつ、長兄 貞義は当時二十歳前後になっていたので
脱藩して、単身密かに水戸へ出奔した。

彼は、水戸邸内出入りの庭師の手伝い人として
その邸内に入り、斉昭の屋敷内外の形状を探った。

又、旧暦8月15日(新暦9月29日)は、例年 中秋の名月の宴が
奥殿で開かれるのを知った。

すなわち、酒宴の前後は烈公斉昭も宿直(とのい)の士も
酔うて警戒が手薄になるであろうと察し

その時期をねらうべく、奥殿の床下に隠れること、4日3晩だった。

後に記す、水戸の記録によれば
15代将軍慶喜の父である斉昭は、その頃肺を病んでいた。

その日の夕刻、御殿医が診察したところ
身体の具合、良好ということで心おきなく酒宴に臨んだ。

仇討ち 1

このお話は、伝え聞いたものです。

T.Sさんの奥様の父は、第一回帝国議会から死ぬまでS県の代議士でした。
大東義徹さんです

日本最初の政党内閣であった、板隈内閣の司法大臣を勤めておられました。

彦根市に住んでいた足軽 大東貞徹の家に次男として生まれたそうです。


彼には兄と弟がいました。
貞義と則経です。

足軽は身分は低いものではあったが、貞徹は我が子を
彦根藩中どこの士の子にも劣らぬように厳しく鍛え、殊に毎日
幼い頃から川や山に連れて行き、そこで剣道をたたき込んだ。

足軽は、士分の者の通う道場へは行けなかった為であろうか。

そんな訳で兄の貞義は、同僚の中で抜群の腕前を持つようになった。

幕末、萬延元年3月3日 1861年
江戸城の桜田門外で、彦根の殿様 井伊大老が水戸の浪士に殺害された時
貞義兄弟の両親はすでに亡くなっていた。

兄弟は、殿様が殺されたことを悔しく思い
水戸の殿様を殺して自分たちの殿様の仇を討ということになった。
プロフィール

ゆかりん

Author:ゆかりん

最近の記事
カテゴリー
過去ログ
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブログ内検索
RSSフィード
リンク
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。